ソラマメブログ

2009年02月07日

AM RADIO「マラーの死」

AM RADIO「マラーの死」AM RADIO「マラーの死」
ダヴィッド「マラーの死」模作。AM RADIOによる浴室まるごとの舞台装置化。薄茶色のフィルター(幕)が、観客側に張ってあります。
ポビュラー過ぎる作家ですが、彼の中でも珍しい作風(フランス新古典主義・英雄指向)だったので、取り上げたくなりました。
血が溶け込んだ湯船のポーズポールに、女性が出演すると、ダヴィッドというより、ドラクロワやマネの裸婦に似てきて、ちょっと可笑しい。

先に紹介したハイパーフォーマリズム展 Kiss the Sky と同じsimで、大地には、対極にあるAM RADIOの作品が置かれているのに、その由来が、なぜか話題になっていません。sim情報を見ると、Kiss the Sky 企画者とAM RADIOは、ひとつのsimのofficer同士の関係になっています。対極にある両者を、わざわざひとつのsimに組み合わせた上位管理者の思い、それを私は想像してしまう。

要所を改めて引用すると、
・ハイパーフォーマリズムは、ハイパーメディアにおける非具象抽象である。
・ハイパーフォーマリズムは具象に無く、観客との関係が既存表象の重みにさほど捕らわれず、美術作品がそれ自身の目的のための形の魅力を促すからだ。ヴァーチャル・ワールドは、作品をスケールの制約から解放する
・誰も、絵の中の形から、風景を見出すことはない。ハイパーフォーマリズムは、提示するのだ。人間中心主義の安楽な常套句を剥ぎ取ることで、より基本的なレベルの自覚に響き、見る者自身の人間性を顧みる、別格な体験の全てに、見る者が開かれることを。
ゴチャゴチャした言い方は、要するに、「風景画や人物画なんかダメだ。おれたち抽象芸術の方が、すごいんだぞ」と主張しています。

引用分を字義通りに受け取るなら、
・AM RADIOの作品は、メディアがハイパーでも、写実具象である。
・観客が既存表象(記憶)に縛られてしまう。美術作品以外の物の魅力を借りているだけで、それ自身には美しさが無い。既存社会のしがらみから抜けるどころか、どっぷり浸かっているから、スケールの制約を解けない。
・誰もが、安楽な風景の常套句を見出して、人間中心主義に逃げ込んでしまうから、より基本的なレベルにおける自覚に響かず、見る者の人間性を顧みることも無い。別格な体験の全てに見る者が開かれるなんて、とんでもない。
というのが、ハイパーフォーマリズムにとってのAM RADIOということになります。


AM RADIO "MaratWithPose" へのアクセスは、こちら。

タグ :Hyperformalism


Posted by comet/コメット at 17:58│Comments(0)
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